パラシュートの歴史

1 パラシュートの世界史


「Parachute」という単語は、「Parare:防護する」というラテン語の接頭語と「Chute:落下」というフランス語からなることは、前のページで紹介いたしました。

歴史に最も古く表れた「落下から防護する」ような表現については、
中世の中国、北京の宮廷において余興として用いられた雨傘型の布を使用する曲芸の様子を、フランス人宣教師のVassonが記している表現ですが、一般には全く知られておりません。
他にもスペインのコルドバの塔等において外套などを使用して飛び降りた者の事例もありますが、これもやはり世間一般的には特に知られていません。

諸説ありますが、1470年代のルネサンスイタリアの名もなき発明家がスケッチした
円錐形の傘に取り付けられたクロスバーフレームを握りしめている男性の絵がパラシュートの始まりです。

ルネサンスイタリアの名もなき発明家のスケッチ

そして1485年、かのレオナル・ド・ダヴィンチもその手記コーデックス・アトランティカスにピラミッド型の装置をスケッチして残しています。

ダ・ヴィンチのスケッチしたパラシュート
このダ・ヴィンチのパラシュートは、1617年にヴェネツィアでクロアチア人の発明家、ファウスト・ヴェランツィオが改良の上で作成して何度も実験降下を行ったり、
2008年4月26日には、ウイングスーツを完成させた英国人スカイダイバー エイドリアン・ニコラスが、このパラシュートを元に設計をしたもの実際に作って、降下したりしています。


次に出てくるのは1595年、ハンガリー人の数学者フォースト・ベエランジェロが、リネン布によって作られた四角すい型の「fall breaker」と呼ばれる物を使用し、イタリアにあるベニスの塔より飛び降り、着地したとされます。

18世紀後半になり、モンゴルフィエ兄弟が気球を開発すると、気球から安全に脱出できるようにパラシュートの開発にも多少の注目が集まるようになります。
フランス人のセバスチャン・レノルマンは気球の開発者であるモンゴルフィエ兄弟を含む大観衆の見守る中、パリのモンペリエ観測所の屋上より木製の枠組みがある巨大なパラシュートを使用し降下したとされています。
そして、これを説明するにあたり、初めて「パラシュート」という言葉が使われました。
セバスチャン・レノルマンの降下を記した様子

そのほか、初めてドーヴァー海峡を気球にて横断したとされるジャン・ピエール・ブランシャールも気球からパラシュートにて降下したとされています。

1797年から1802年には、フランス人のアンドレ・ジャック・ガルネリンが、絹製の傘型で中心に棒を取り付けたパラシュートを使用し、つりさげられた円柱形の籠に乗り込んで、上空2400メートルからの降下に成功しました。
アンドレ・ジャック・ガルネリンによるパラシュート降下

現在のパラシュートとは似ても似つかないですが、アンドレの妻や姪についても安全に降下を体験したとされています。
ただ、このパラシュートについては中心の棒による振動が大きな問題となっていたそうです。

この振動を解消するため、1804年、フランスの天文学者でフリーメイソンのジェロームラランドがキャノピーに通気孔を初めて導入しましたが、この際はまだ一般には広まりませんでした。

1808年7月24日にはポーランドの気球操縦士ヨルタギ・クペレントがワルソー上空にて燃え盛る気球からパラシュートを使い脱出し生還。
初めての緊急脱出使用例となります。
このような成功事例も噂されるようになり、気球が一般に広まるにつれより一層、脱出用のパラシュートは必要性に迫られて研究がなされるようになってきました。

イギリスのジョージ・ケイレイ卿やドイツのローレンツ・ヘングラーによって逆円錐型のような落下傘も提唱し始めますが、
1837年には芸術家のロバート・コッキングが死亡したことがセンセーショナルに報道され、パラシュートへの不信感が募ります。

そんな中で、天文学者のレナードによって排気孔が再度考案されます。
傘にあえて孔をあけるという大胆な発想に不信感を持つ人たちは当初は抵抗を受けるものの、 安定した降下を行うことが可能と示され、広く用いられるようになりました。


1887年にはアメリカのトーマス・ボールドウイン大尉によって排気孔付きの折り畳み式絹製パラシュートが考案され、
1890年にはドイツのポール・レッテルマンとカテー・ポールスによりバックに包装して担ぐ形式の、ほぼ現代の形と同様のパラシュートが形作られました。

1903年にライト兄弟によって動力付き飛行機が開発されると、パラシュートの開発はより一層の必要性に迫られるようになります。


1907年にはチャールズブロードウィックが折り畳んだパラシュートをスタティックラインにより解散する方式を発明。
同年にレオ・スティーヴンスがリップコード式のパラシュートが考案。
1911年にはロシアのグレープ・コテルニコフも背負式パラシュートを発明し、イタリアのピノは誘導傘付きの軟式パラシュートを製作しました。
初めて飛行機から降下したのは1911年のグラント・モルトンとされ、アルバート・ベリ大尉の直径11メートルのパラシュートで、ラインに取り付けられたブランコのようなものに座っていたとされ、翌年1912年にはアルバート・ベリ大尉自身もミズーリ州上空より降下しました。


1912年には発明家フランツ・ライヒェルトの実験中の死亡事故等もありましたが、車の制動用の度ローグシュートなども発明されだします。
1913年にはバルーンアクターとしてタイニーブロードウィックが、女性として初めて航空機よりパラシュート降下を行い、パラシュートのダイバーとして評判になりました。
タイニーブロードウィックの写真。スミソニアン国立航空宇宙博物館(NASM 77-716、NASM87-13559)


1914年、第一次世界大戦が開戦され、観測気球での砲兵観測者によるパラシュートの使用が最初の軍事的使用はの事例になりました。
当時の気球は水素を使用しており、敵の戦闘機に見つかるや直ぐにパラシュートで逃げることが定石でした。
パラシュートで降下する準備をする気球観測員

しかし、当時のパラシュートはあまりに大きく、航空機のコックピットに入れることはできませんでした。
そのため大戦において墜落する飛行機から逃げる方法のないパイロットが非常に多く失われることが問題となります。

そんな中、米軍はタイニーブロードウィックの噂を聞きつけ、彼女に連絡を取りました。
タイニーブロードウィックがデモンストレーションジャンプを行うことにより、パイロットが飛行機から脱出することによって安全に地面に戻ることができることを証明し、この結果を受け在仏アメリカ空軍司令官であったウィリアム・ミッチェル将軍は、組織的なパラシュートの開発・試験計画を考案し、オハイオ州のデイトンにあるマクコック飛行場にパラシュート研究の専門施設を設立、1918年には研究が開始されました。
なお、このデモジャンプの際、4回行う予定のデモのうち3回目でスタティックラインが尾翼に絡まり切れてしまったことから、突如予定された次のジャンプは手動で傘を開くこととなり、タイニーブロードウィックはフリーフォールのスカイダイビングを行った初めての人となりました。


同じころ、1915年にはドイツ軍がカテー・ポールスの考案したパラシュートを軍の気球乗務員脱出用として正式採用。
1917年にはイギリスも救命装備品として空軍に正式採用。
1918年には全戦線にて広く使用されることとなりました。

1916年7月にはケンタッキー州のソロモン・リー・ヴァン・メーター・ジュニアが軍の研究の結果として現代的なリップコードを備える実用的な緊急脱出用パラシュート「Aviatory LifeBuoy」を発明し、
1922年10月20日には、アメリカ陸軍航空隊のハロルド・ロス・ハリス中尉の搭乗する戦闘機が空中分解を起こし、手動開傘式パラシュートで無事に生還し、アメリカ初のパラシュートによる非常脱出、世界初の重航空機事故からのパラシュート脱出となりました。
それまでパイロットは大きく邪魔なパラシュートの携行を嫌っていましたが、この事故をきっかけに認識が変わり、 翌年1923年にはアメリカ陸軍航空隊において飛行機に搭乗する際のパラシュートの携行が義務付けられるようになりました。

1926年には米陸軍航空部隊S-パラシュートが制式化。
翌1927年にS-2型パラシュートが制式化されたことを受け、
1928年、米軍空挺部隊が創設され、5月10日にセザール・アルバレス少尉が3000mの高度から降下しました。
1929年、ホフマン少佐によって三角布による半球型パラシュートが考案されて改良が続けられ、
1940年にはジョージア州フォートベニングに空挺部隊訓練所が設立されます。

一方、ソビエト連邦では車両と軽戦車を備えたユニット全体を投下することを裏に計画し、1931年には有事には軍に移る国営パラシュートクラブが組織され、
ドイツについてもシュットウットガルト近郊にあるグラーフ・ツェッペリン研究所においてはパラシュート工学が専門で研究されるようになり、
1935年からは空挺部隊を編成、1936年には空挺訓練学校を設立しました。
フランスに至っては、平時は自然災害に、有事は軍事に転用も可能な、200人の女性看護師によるパラシュートジャンプナースと言われる部隊も編成されました。
popular science 1930.4

1938年にはロシアのドローニング兄弟が機械式自動開傘装置を開発しました。

世界大戦が終了してもしばらくは軍による活動と緊急脱出用の使用でしかありませんでしたが、
1952年ユーゴスラビアにおいて第1回世界パラシュート選手権大会が開かれ、 スカイスポーツとしてのパラシュートが行われるようになりました。
1967年にはUSPA(The United States Parachute Association)が設立されました。


また、1958年ごろに行われた成層圏への気球による到達を目的とする実験 「プロジェクト・マンハイ」において高度101516ftに到達することに成功した米軍は、 宇宙船の故障時の緊急脱出による人体への影響を検証する実験と称し、 「プロジェクト・エクセルシオ」成層圏からのパラシュート降下を実行します。
プロジェクト・エクセルシオ

アメリカ空軍のジョゼフ・キッティンジャー大尉によって1959年から1960年に3度の実験を重ね、 1960年8月16日、彼は102800ftから降下、ドローグシュート展開させた後4分36秒降下し、 高度16000ftでパラシュートを展開、 ニューメキシコ州の砂漠に着地した。

降下時間は13分45秒。
この実験により
最高気球高度・最高パラシュート降下開始高度・最長ドローグシュート降下時間・乗り物を使わない最大大気中速度988km/hの記録が樹立された。

ただし、高々度での姿勢安定にドローグシュートを使用したためフリーフォールとしての高度記録は樹立できませんでした。

続いてソ連でもエフゲニー・ニコライ・エビッチ・アンドレーエフが1962年に24500m(83523ft)から降下、 フリーフォールとしての高度記録を樹立しました。

1963年にはカナダのドムCジャーバートによってラムエアマルチセルキャノピーが発明。
1978年にはアメリカのビル・ブースが3リングリリースシステムを考案し、安全性が向上しました。


1990年頃になると、フランスのパトリック・ド・ガヤルドンによってウイングスーツが考案され、
1999年にはフィンランドのBIRDMAN社から一般に販売されるようになります。

RED BULL YOUTUBE CH


2004年にはスイスのイヴ・ロッシーが小型ジェットエンジンを搭載した翼、通称ジェットパックを開発、世界各地にて飛行を行い、ジェットマンの愛称で知られる。
ジェットマン イヴロッシー
ジェットマン イヴロッシー



2012年10月14日、前述のプロジェクトエクセルシオのキッティンジャーをスーパーアドバイザーに迎え、 レッドブル・アスリートのフェリックス・バウムガートナーは、 米国ニューメキシコ州にて、プロジェクト「レッドブル・ストラトス」を行い、 128000ftから降下し、フリーフォール時の速度は時速1342.8km/h(マッハ1.2)を記録し、キッティンジャーの記録を塗り替えた。
レッドブルストラトス フェリックスバウムガートナー
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更に、2014年10月24日にはGoogle社の上級副社長であるアラン・ユースタスがニューメキシコ州ロズウェルにおいて「ストラトスフェリック・エクスプローラー」プロジェクトを行い、
135,890ftから降下し、世界記録が更新されました。
Atomic Entertainment CH Official StratEx Launch Video



2 日本におけるパラシュートの歴史

日本で初めて落下傘降下が行われたのは1890年11月に横浜でイギリス人のパーシバル・スペンサーが降下を行ったのが最初だといわれています。
同月には皇居外苑や上野公園でも効果が行われ、明治天皇の御前で観覧を受けながら実施されました。

それから月日は流れ、日本人の初降下は1922年に行われました。
茨城県霞ヶ浦講習本部において、イギリス軍オードリース少佐により約6週間の降下訓練が行われ、講習を受けた約10名の講習生により
1922年4月5日には霞ヶ浦海軍飛行場において各将校の前で、12日にはイギリス皇太子殿下の御前で、5・6月には皇族の御前においても降下が実施されました。
1925・26・27年には民間降雨空ページェント大会でも降下が行われ、
1928年には藤倉工業(現:藤倉航装)において落下傘が国産化。
1932年には東京深川洲崎飛行場で東京飛行学校主催の航空ページェント大会で降下が行われ人気を博しました。

その後、1938年に日本陸軍落下傘部隊が創設され、第二次世界大戦が勃発してからは一時断絶の歴史となります。

戦後もしばらく動きがなかったものの、1955年に陸上自衛隊臨時空挺練習隊が創設されました。

1960年に、当時空挺団隊員であった笹島穣が米国陸軍に留学して多数のスカイダイビングに関する資料を持ち帰ったことをきっかけに、
1961年から、空挺隊員の有志5名によって「インペリアルスポーツパラシュートクラブ」が結成され、主は茨城県水戸の射爆撃場跡地において降下が行われました。


学生グライダー連盟に所属する学生の、陸上自衛隊習志野駐屯地における降下塔訓練支援をきっかけに日本航空協会とつながり、
1962年に正式に航空スポーツクラブの届出を行う。
同年にはセスナを利用した降下を行うようになり、学生パラシュート連盟が発足。
同時期、防衛大学校パラシュート部も創設され、1963年には一般大学生の訓練も行われるようになり、日本における落下傘スポーツの基礎ができあがります。


1967年には民間団体ジャパンスカイダイビングクラブが設立され勢いが増す中、
1969年12月15日、埼玉県桶川町において日本で初のスポーツスカイダイビングにおける死亡事故が発生。

1971年には前述の笹島穣を理事長として、日本落下傘スポーツ連盟が発足。
翌1972年には第1回日本落下傘スポーツ日本選手権が開催、
1985年には第1回リラティブワーク日本選手権も行われ、当時のバブル経済に後押しされスポーツスカイダイビング人口は着々と増加の一途を辿りました。

ところが、1986年に再度、空中衝突による死亡事故が発生、刑事事件として立件されることにります。
その後、日本RWパラシュート協会が連盟から分離、
1990年代前半のバブル崩壊に伴い、学生パラシュート連盟についても実質解散となり、
1991年には東京スカイダイビングクラブが連盟から分離、設立。

日本RWパラシュート協会も後に解散となり、
以降長らく、日本落下傘スポーツ連盟、東京スカイダイビングクラブ等に代表される、その他数団体に分かれたスポーツ運営が続く。